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明日は自治体の肺がん検診を受ける予定なのですが、前日になってから確認事項をちょろちょろ読んでいると、受診できない場合として「半年以内に肺のX線撮影をしている」というのがあって、小生は引っかかっているような気がしないでもないのです。 そう、半月前にあばらが痛いと騒いでCTを受けていたのでした。 ちなみにアレは知らないうちに治りましたけど、CTってX線撮影になるのでしょうかね。 なるような気もします。 まぁ明日行って確認すりゃいいだけの話なんですが、朝早いから億劫で……。 眠い目擦ってチャリチャリ行ってそれで無様に追い返されたら、まさに骨折り損のくたびれもうけ。 たぶん無駄だろうなあと思いながら早起きするのって、ほんと気が重いものです。 そうそう、小生のお腹が妊婦さんになりました。 |
2/6 |
肺がん検診はやはり追い返された。 わかっちゃいたよ、半月前にCTしてるんだから。 でもキャンセルの電話をどこにかければいいのかわからなかったから、行ってみた。 無断キャンセルでも良かったのかもしれないけど、小生はそんな粗暴な態度がとれない好青年であるのですよ。 今度の連休は南予に行ってきます。 いつもとは逆に小生が待ち受ける立場で、当日朝の時間的余裕があるためか、それで気が緩んでいるのか、いまだ準備をしていない。 さすがにそろそろ準備を始めるタイミングではあるけど、一泊という気軽さもあいまって、なかなかする気にならんのですよ。 まぁ換えの下着をちょろっと詰め込むだけでいいとは思うんだけど。 それはそうと、このタイミングで四十肩がきた。 |
2/8 |
「思春期だとか青春だとか、若さは春に譬えられますけど、じゃ小生は夏くらいですかね」 即答で「秋やろ」と返されるとさすがに辛い。 せめて「夏休みの終わりごろ」とか、その程度の気遣いは欲しかった。 ていうか40で秋とは、人生はなんと短いことか。 そのあと「春でいいやん。何歳になろうとも春と思っていればいいんやで」と遅まきながらのフォローが入りましたが、もうええんやで、おっさんは秋でええんやで。 春だなんて、そんな烏滸がましい……。 |
2/11 |
愛媛県南部、大洲宇和島卯之町を旅行してきました。 それはまた後日。 まずはゆっくり寝させてもらいましょう。 ではまた。 |
2/14 |
2月10日 さて、2月の10日と11日の連休に小生はいつものメンツといつもの常盤旅をしてきました。 今回の行き先は愛媛県南部の南予地方。 旅先としてはそうそう挙がらないチョイスですよね。 結局のところ傍目には地味に地味を上塗りしたようなとこばかり巡っておりましたが、それでも探せば感興をそそる観光地(?)は何処にだってあるものなのですよ。 集合場所は大洲。 大洲城とおはなはん通りと臥龍山荘と、いわゆる小京都。 だが我々にとっては、大洲=宇都宮豊綱。 信長の野望にも時々出演してるんやで。 伊予のメイン豪族・河野氏と「戦上手をもって聞こえる西園寺」氏(by大原富枝)に挟まれて影が薄いけど。 うえっちあおっちと合流したら「大洲まちの駅あさもや」にある分油屋で蕎麦をすすりながら作戦会議。 旅が始まってから作戦会議をするこの緩さや如何に。 なお今回のテーマは西園寺十六将とか高野長英とか、そんな感じ。 西園寺十六将とか、マイナーすぎて逆に(失笑込みで)有名になっちゃった感があって、結局知名度あるのかどうか小生にはわからない。 きっとないけど。 大洲神社は1331年、伊予宇都宮氏の初代となった宇都宮豊房が大洲城を築くときに下野国二荒山神社より勧請して城内総鎮守神として斎祭したことに始まる。 なお、その大洲城(当時は地蔵ヶ嶽城)の築城に際して「おひじ」という娘が人柱になって、それで城下に流れる川の名が肱川になったという伝説がある。 肱川、いまだに氾濫するんですよねえ。 大洲を発った我々はずずずと一気に南下し、愛媛の南の南、御荘にやってきた。 いまは愛南町というらしい。 そこで訪れたのは我々常盤旅と同じ名を持つ常盤城。 いまは小さな山ひとつ諏訪神社になっている。 どっから登ればいいのかわからなかったので、適当に目についたところから登ると、神社の裏に出た。 常盤城の城主は西園寺十六将のひとり勧修寺基詮。 資料によっては左馬頭であったり兵庫介であったり。 勧修寺氏は土佐一条の家司である町氏が元であるらしい。 西園寺十六将でありながら、ドンパチしてた一条氏とも関係が深い。 もうひとり西園寺十六将の渡辺教忠もまた、こちらは土佐の一条氏から伊予の渡辺氏に養子に入ったのであって、ここらへん田舎にありがちな「領主連中皆親族」が垣間見られる。 我々常盤旅の「ルーツ」とネタして常盤城に来たわけだが、まったく関係がないわけでもない。 先に言った通り勧修寺氏は一条氏と縁が深く、一条氏が長宗我部氏に喰われかけたときに助け、そのせいで長宗我部勢に攻められたことがあった。 そのとき勧修寺家の援軍として城に入って共に戦ったのが、旅の傭兵集団ともいわれる大和の国の常盤衆で、その恩もあってか以後この城を常盤城と呼ぶようになったとの伝もある。 奈良の常盤舎に遊学した我々としては縁を感じずにはいられない。 続いて我々が向かったのは久良天嶬鼻砲台。 道が狭く危険とは聞いておったが、想像以上の険道に歩くのも怖い。 車でも行けるはずだが、行く気にもならない。 一歩間違えたらゴロリンよ。 こんな道が延々続くわけだから、車両制限すべきだと思うのだが。 高野長英砲台跡で、あおっちが射角を計り、小生が弾を込める、わかりにくい一枚。 お尻から弾を込めている小生であるが、当時のは後装式ではなく前装式のような気もする。 よくわからない。 ただ、10発中9発が標的近くに命中というハンパない試射結果があるらしい。 台場は海峡が狭まっているポイントに設けられているが、それでも対岸までカバーできるのか疑問もある。 長英作の砲の射程がどれほどか知らないけれど、向こうまで届くイメージがわかない。 あるいは対岸にももう1門あったのかもしれない。 今後の調査が待たれるが、それは小生らの仕事ではない。 宿は宇和島。 若干TSURUGAる気配も漂ってはいたが、なんとか「かどや」で鯛めしにありつくことができた。 伊予名物鯛めしには2種類あって、中予のは焼いた鯛を米と一緒に炊き込んだもの。 そしてここ南予は、鯛の刺身をご飯に乗っけてタレを流し込んでいただくもの。 小生は南予式がお好き。 宿に戻る前に高野長英の隠れ家に立ち寄る。 ところで高野長英とは何者なのか。 名前は聞いた覚えがある程度。 蘭学者と言うのは知っているが、それで結局「なにしたひとなの?」 そこんところ、非常に淡い。 近々図書館で吉村昭の『長英逃亡』を借りるつもりなので、そこで知識を得ようと思う。 むろんその知識はこの南予記には反映されない。 宿に戻りて、定番の大富豪。 使用するトランプ、こたびはあおっち持参の戦国武将トランプ。 大富豪は2が最強カードになるため、まさかの平塚為広が切り札とかなかなかカオス。 というか平塚為広が混じっている時点であまりにもニッチなトランプだ。 伊達政宗がいないのに。 今回はうえっち考案の、得点制を導入した常盤ローカルルールで仕合ってみた。 ひとり上がった時点で、他の者にそれぞれ残った手札に基づき点が加算され、最終的に総得点の少ない者が勝者となる。 2が一枚につき15点、Aが一枚10点、絵札が一枚5点、それ以外が一枚1点と計算される。 これにより強カードの温存はリスクを孕むため、場は怒涛のしばき合いとなった。 もちろん富豪と貧民間の札交換は従来通りだが、それでも富豪の長期政権は成り難くなっていて白熱の繰り合いが続いた。 これはひとつの叩き台で、今後ルールがより洗練されていくものと思われる。 というわけで、南予の旅初日を終える。 |
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2月11日 西園寺十六将。 もちろん当時からそんな呼称があったわけではないから「我こそは西園寺十六将のひとり……」などと恥ずかしいことは言っていない。 後年そう呼ばれるようになった。 江戸時代になると人々は徳川十六神将とか黒田二十四騎とか、戦国時代に精強で鳴らした武将たちを数え上がて「うわ、やっべぇ、こいつらマジかっけぇ」と楽しんでいたが、その流れに乗って西園寺十六将が誕生したわけでもない。 もっと事務的なものだ。 やはり江戸時代ではあるが、宇和郡に入ってきた伊達家が、「ところで以前ここいらを治めていた西園寺というのはどういう家か」と調べると領主が十六人いた。 それだけだ。 それでさらに後年、西園寺十六将という呼称がされるようになったのだが、言い出しっぺの罪深い奴は一体誰なのか。 「かつてここらには十六人の領主がおったで」という調査結果に過ぎないものが発端であるから、西園寺十六将には大名本人の西園寺公広の名前が連なる。 よって、徳川十六神将だとか黒田二十四騎などは家臣団の中からのピックアップだが、西園寺十六将は全力の可能性がある。 どころか、ほんとに全員西園寺家の被官なのか、クエスチョンマークが浮かばない方がおかしい。 白木城主の宇都宮乗綱はどう見ても大洲宇都宮家の関係者だし、萩森城主の宇都宮房綱にいたっては大洲宇都宮家当主豊綱の実弟であって、西園寺十六将仲間の摂津親安と争って討ち取っている。 ……ほんとにみんな西園寺公広と愉快な仲間たちの一員なのか不安になる。 と西園寺十六将について長々と語ったくせに、朝一で訪れたのは大村益次郎の住居跡。 この流れで紹介するのはなんだが、維新の十傑のひとりである。 で、ここで先に語った西園寺十六将と同じ熱量で語りたいところではあるが、周知のとおり小生は幕末についてなにも知らんでいるので、大村益次郎については提灯職人の嘉蔵と知り合いということくらいしか知らない。 あとは頭が長いということくらいだろうか。 樺崎砲台跡と奥に見えるのは宇和島市立歴史資料館。 樺崎砲台は1866年、来航したイギリス軍艦に礼砲を撃ったと記録にある。 歴史資料館には宇和島の古地図があって、おもしろかったです。 はい。 ……伊達博物館が休館だったのが惜しまれる。 あそこが開いてれば、もう少しは宇和島について熱く語れる、かもしれなかったのに。 謝っておこう。 この日曜日に南予旅行の記録をすべて書き上げてアップしとくつもりだったのだけれど、できなくなった。 明日月曜日、健康診断で朝7時起きというのを忘れてました。 はよ寝な、書いてる場合じゃねえ。 いつも0時~5時の間に書いてるから、今回もそのつもりで、日中は手を付けてなかったんです。 |
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2月11日 つづき 西園寺十六将といっても、西園寺さんの影は非常に薄い。 十六将がひとり観修寺氏の籠る、我らが常盤城が長宗我部勢に攻囲されやがて降伏に至ってもなお、盟主西園寺さんはこれっぽっちも姿を見せない。 西園寺さん、どこでなんしよん? 宇和島を発った我々は、山の中に細く開ける三間に入り、岡本城を目指します。 どの山が岡本城であるかは三人とも把握しておりますが、どこから登ればいいのか、三人とも「……」というありさま。 なんとなく、それとなく、山の中に道っぽいのが伸びているくさい感じの雰囲気っぽい箇所を発見し、これ違うやろ、これアラフォーが軽々に足を踏み入れてええ場所ちゃうで、ここ進むん許されるんは20までや。 とは皆が思ったのだけれど…… 年相応の分別を(極力)打ち捨て行くんが常盤旅なんやで。 とはいえこれ道なん? 竹の切り出しとか、林業に従事する里の人の作業場に思えるし、それにしては荒れてるようでもあるし。 まあいい進もう。 あおっちが道なき道をガシガシ登っていく。 それをうっすら眺める小生は、安全が確認されたポイントから決して動こうとはしない。 ふと振り返ると、後ろにいたはずのうえっちが、別なルートを開拓して姿を消している。 なんなん、なんでこんな局面でバラバラ行動ができるん? そして誰もいなくなった。 天正七年、長宗我部元親は久武親信を三間に侵攻させる。 土居清良を筆頭にそれを迎え撃つ三間衆は、この岡本城での戦いで敵将久武親信を討ち取り、長宗我部の伊予侵攻を一時挫く。 そしてこの重要な戦いにおいても、西園寺さんの姿は一向に見えない。 岡本城の戦いに参加し長宗我部を跳ね返したのは十六将の土居清良、河野通賢、津島通顕、法華津前延、今城能定、竹林院実親、かどノ介であって、盟主的立場の西園寺さんは、こんなときにどこでなんしよん。 小生体調不良につき、あとはまた後日。 細切れにして申し訳ない。 「紹介状を書きますから、この病院で診てもらってください」 と言われたときの絶望感は半端ない。 結局なんでもなかったけど。 |
2/23 |
2月11日 つづき 難攻不落の岡本城を離れて、小生たちは大森城に向かいました。 さすがは十六将では別格の存在、土居清良さんの居城ですよねー。 先ほどとは違って、こちらには看板が出ています。 これがなければ、畑に向かう小道にしか見えなくて二の足を踏むところでした。 土居さんが西園寺十六将の中では別格と思えるのも今の印象で、当時はどうだったのでしょうね。 領していたのは3村2000石ですから下から数えた方が早い。 渡辺教忠なんかは16500石で筆頭、と扱われてたりしますけど、当主・西園寺の公広さんが十六将に名を連ねている以上、やっぱ西園寺十六将筆頭は公広さんじゃないのかと! ちなみに公広さんの時代かどうかはわかりませんけど、西園寺家が領していたのは20600石くらいだそうですよ。 普通山道ってのはつづら折りであったり、極力斜度を抑えて登りやすくしているはずなのに、大森城はまさかの直登なんです。 はじめはアキレス腱がよく伸びてオッサンには辛いわー程度で済んでいたのですが、そのうち普通に立つのも厄介なくらい険しくなりまして、だいたい雨上がりなんですよね、さきほどの岡本城もそうでしたけど、こちらも結構な粘土質で足が取られたりぬめったり沈んだり。 で、こうして誰かのかけたチープなロープの出番なんです。 ただ、このロープに全体重を預けるのも怖いのです。 土居さんが2000石だったのは重要視されてない小物だったから、ではなく、西園寺十六将はそれぞれ土豪の集まりであって、部下と言うよりは西園寺さんの与力衆に過ぎないから、「お前有能やから領地増やすわ」なんてことにはならないのでしょう。 だから「岡本城救援に来た大勢のうちの一人」くらいしかエピソードのない津島通顕が10000石とか勿体ないことになっているのです。 ノブヤボ脳の小生が主君なら津島さん追い出して土居さんに全振りしたいところです。 ようやく登りまして気持ちがいい。 大森城は急峻でもありますから、広い展望に吸い込まれそうになるのです。 そういえば岡本城登攀中にうえっちが「年をとると体の可動域が狭くなって意図したように動けない、イメージしている体の動きと現実の動きに差異があって疲れる」と申しておりました。 よくわかります。 小生はずっと竹馬に乗ってる感じで山を登っておりました。 腰から足の関節がガチガチなんですよね。 西園寺十六将の中で最も異色なのは、東多田かど綱とも呼ばれるかどノ介ではないでしょうか。 この人物のことはよくわかっておりませんが、常盤城や岡本城での土佐っぽとの戦いに援軍として参加した常盤衆の一人だといわれています。 ほかにうえ松之進とあお八郎四郎が常盤衆として参加していましたが、戦功を笠に着たかどノ介が東多田の下木城に強引に入り「東多田かど綱」と名を改めたのち、ふたりは大和に戻ったようです。 岡本城の戦いのあと、大森城で土居清良と面会し西園寺十六将入りを快諾されたかどノ介改め東多田かど綱。 横で拍手するうえ松之進と撮影するあお八郎四郎も西園寺十八将入りを土居さんに提案されたが、慇懃に断ったという。 まったく欲のない。 大森城を下山した我々は三間から卯之町に向かいます。 その山越えの道に、昨年の大雨の傷跡が未だに残っているのを見ました。 復旧工事も行われ道路は通行ができるようになっていますが、被害の大きさをこの残滓に窺うことができます。 卯之町にて二宮敬作先生住居跡と高野長英の隠家。 だから高野長英は何者なのさ、というこの人物の全般的イメージに模糊模糊と纏わりつく覚束なさに隠れておりますが、二宮敬作先生も結構なアベレージでなんか模糊模糊としたイメージなんですよね。 それに同じ宇和郡出身の二宮さんと言えば「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」「日本の航空機の父」と派手でわかりやすいだけに二宮忠八さんの方が先に来るんですよね。 まぁ忠八さんも敬作先生も世間一般的には「誰???」でしょうけどよ。 西園寺さん菩提寺の光教寺に向かいます。 伊予の大名といえば、河野さん。 西園寺十六将といえば、土居さん。 と、不遇な西園寺さんは元々は京のお人どすえ。 それが鎌倉時代に荘園維持のために一族をこんなド田舎に送り込んだのが伊予西園寺家の始まりどすえ。 松葉と立間と来村の三か所に分かれて土豪化し、やがて松葉殿がイニシアチブをとるようになり、そんで松葉殿は城を黒瀬に移し、黒瀬殿として公広さんに至るのです。 この光教寺には公広さんの墓があるというので、探します。 実は数年前に小生ひとりここを訪れ公広さんの墓を探したのですが見つけ出すことができないでいたのです。 今回もまた寺の左手の山の斜面に張り付く墓墓墓の中を駆けずり回り探したものの、どうして見つかりません。 もう諦めよう、そう思った時でした、 探し回った寺の左手とは逆の、寺の右手に公広さんの墓を発見しました。 境内からは社務所(?)の奥の分かりにくいところ、だけど山門と社務所の間の狭い道を抜けると、そこにちょっとした墓地が広がっていて、その中に公広さんのお墓はあったのでした。 まさかこんなところにあったとは。 岡本城と大森城を訪れたとき、その意外な近さに驚きました。 それは主城を中心に張り巡らされた支城の跡ではありません。 山がちな地形の南予地方にたくさんいた小さな小さな土豪たちが、寸土を削り合う小さな紛争をずっとずっと続けていた、戦乱の痕跡なのです。 そこに颯爽と登場したのが、京よりやってきた都人の西園寺さんです。 田舎人の小土豪たちは、西園寺さんの権威を自分たちの上に置き重石とすることで、果て無き小さな紛争を止めようとしたのです。 それが西園寺十六将のはじまり、ということでしょうかね。 まぁ十六将同士の争いは依然ありましたけど。 こうして小生らは一泊でありながら妙に濃度のあった旅を終えたのでした。 南予なんて行くとこねえよ、と思っていましたけど、探せばなにかと興味深いスポットはいろいろとあるのですね。 短くても面白い旅行でした。 ただ、せっかくうえっちとあおっちに来てもらったのに、たいしてガイドできなかったのは小生の不徳。 次があればきっと、今度こそはお任せあれ。 ほら、十六将のお城まだまだ残っているし…… ではまた。 |
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体調はまだ完全には良くなっておりません。 咳と鼻水が続いております。 1月の中旬から喉が痛くなり出して、それでアバラが痛み出して病院に行って、喉がずっと痛むから病院に行って、病院に行って、「うち内科だから咽頭癌があるか分かんないから」と紹介された病院行って、癌じゃなかったのは良かったけれど今年に入ってから病院ラッシュです。 さすが本厄ハンパない。 それまで風邪の症状はなかったけれど最後に行った耳鼻咽喉科でもらったようで、それからずっと風邪。 あとついでに言うなら健康診断で肝臓的にひっかかった。 小生ボロボロなんやで。 やから、来月は人間ドックに行くつもり。 そろそろ予約入れとかな。 南予旅行の記事を書くにあたって、ちょぴっと調べて、少々は西園寺さんたちのことについて知った。 ので、それら以下雑記。 『清良記』より 西園寺家直属の家臣団には「上甲七騎」という、いかにも騎馬ったネーミングの集団がいたけど、熊野信仰に基づいた宗教的先達のようで、内実はそんなに騎馬ってないくさい。 土居清良の土居家は紀州の出らしくて、城中に熊野神社を勧請していて、清良も熊野三山を巡拝していて、信者であるくさい。 |